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入学式
4月5日(土)、2025年度入学式が行われました。今年度は672名の新入生を迎えました。
会場となった日吉会堂には塾旗が掲揚され、晴天の下、はためいていました(写真)。
式では伊藤公平塾長、山内慶太常任理事を迎えました。阿久澤武史校長の式辞に続いて塾長の祝辞があり、新入生代表が元気に宣誓を述べました。
学校長式辞は下記に掲載します。
学校長式辞
新入生の皆さん、ご入学、おめでとうございます。ご家族をはじめ、ご関係の皆様にも、心よりお慶びを申し上げます。
日吉の丘の桜が満開です。これから始まる皆さんの高校生活を祝福しているようです。
慶應義塾高等学校、私たちは「塾高」と呼んでいます。塾高はいま、「日吉協育モデル/正統と異端の協育」と名付けた独自の教育を展開しています。「正統」は、高校生として塾生として、当然に身に付けるべきバランスのとれた「知・徳・体」を意味します。「異端」は、「正統」を踏まえて磨き高められる傑出した個性や能力です。
一本の木をイメージしてください。「正統」はその幹や根であり、「異端」は花や果実です。しっかりした幹や根があって初めて、美しい花が咲き、豊かな果実が実ります。「協育」の「協」は「協力」の「協」、この学校に関係するたくさんの人たちと協力しながら、皆さんを大きな木に育てたい。そのための水や養分になるのが、授業であり、生徒会活動やクラブ活動であり、「協育プログラム」と名付けた多種多様な教育活動です。講演会や講座、インターンシップ、国際交流など、たくさんのプログラムを用意しますので、楽しみにしてください。
さて、上智大学の佐藤卓己教授は、『あいまいさに耐える』という本の中で「ネガティブ・リテラシー」という概念を示されています。私たちのまわりには、特にSNSやネット上において、不確かな情報があふれています。だからこそ正しいか正しくないか、善か悪かの判断をすぐにせず、曖昧な状況にしっかりと向き合い、それに耐え、自分の頭で考える力が必要となります。「ネガティブ・リテラシー」は、不確かな情報にすぐに反応せずにやり過ごす力、「消極的な読み書き能力」のことです。無責任な噂話や誹謗中傷、フェイクニュースを鵜呑みにせず、必要以上に読み込まず、うまくやり過ごす。不用意な書き込みをしない。曖昧な情報に取り囲まれていることを認識し、その状況に「耐える力」こそが、AI時代に求められるリテラシー能力なのだ、ということになります。
「ソ・ウ・カ・ナ」という標語を聞いたことがあるでしょうか。「ソは即断しない、ウは鵜呑みにしない、カは偏らない、ナはスポットライト(光)が当たっているその中だけ見ない」。略して「ソ・ウ・カ・ナ」、SNSやネットでのトラブルを防ぐために必要な心がけです。膨大な情報が溢れている中に身を置いて、まずは一歩引いて「ソウカナ?」と考える。わかりやすいですよね。
皆さんは高校生になり、ここにいるほぼ全員が、スマホを日常的に持つことになるでしょう。中学校で学校に持っていくことを禁じられていた人、受験勉強に集中するために使うことを制限していた人もいるでしょう。そうした制約から解き放たれ、これから新しい友達を作るために、スマホの持つ面白さや魅力にのめりこんでしまう人がいるかもしれません。だからこそ私はここであえて言いたいと思います。便利なもの、面白いものは、ときに危険なものでもある。一歩引いて、ネガティブにとらえることも必要ではないか。そのための「ネガティブ・リテラシー」、曖昧な情報にすぐに反応しない、うまくやり過ごす、安易な書き込みをしない、そうした「消極的な読み書き能力」を、自分の中のブレーキとしてぜひ持っていてほしいと思います。
それでは、そうしたブレーキを持つために何が必要なのでしょうか。実際、これからそれを必要とする場面に必ず遭遇すると思います。とても難しい問題です。すぐに答えは出ないと思います。その答えは、これからじっくりと考えてください。受験勉強をしてきた人たちは、一問一答式の問題をたくさん解いてきたことと思います。答えが一つだけ、というのは正解すればすっきり気持ちがいいですが、現実の世界はそうとは限りません。正解と不正解、白と黒、善と悪、優と劣、損と得の区別は、実は明確ではなく、その中間・境目の部分で私たちは頭を悩ませます。逆に言えば、だからこそ面白い。悩むから、考えるから、頭を使うから面白いのです。
塾高の授業は、答えよりもプロセスを重視します。理科は実験や実習に重きを置きます。社会科は歴史的背景や現代社会の仕組みを、ときにマクロに(大きな視点で)、ときにミクロに(小さな視点で)掘り下げていきます。数学は答えに行き着くまでの考え方や計算のプロセスを重視します。国語は論理的な思考力を鍛えるとともに、文学作品や古典を通して「人間」というものの本質に迫ります。外国語の習得に必要なのは、時間をかけて反復すること、時間をかけた努力の積み重ねです。「学ぶ」ということ、「勉強する」ということは、本来膨大な時間と労力を必要とするものです。時間をかけて丹念に事実を探り、文献を読み、自分の頭で考え、仮説を立て、それを検証し、何度も何度も修正を加えていく。トライ&エラーの連続ですが、その先で見えてきた世界や見識は、自分にとって信じるに足るものになるはずです。すぐに答えを出そうとしない。すぐに結果を求めない。塾高で皆さんが身に付けるのは、「時間をかけて考えることに耐えられる力」なのだと思います。
あらためて「ソ・ウ・カ・ナ」、「即断しない、鵜呑みにしない、偏らない、光が当たっているその中だけ見ない」、真理というものは、光が当たっていない場所にこそ存在します。偏らない自由な心で、暗い世界に光を当てる。私たちがイメージする「正統」の幹や根は、そうした柔らかな知性によって、太くたくましくなっていきます。
福澤諭吉は、『学問のすゝめ』の中で「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。」と言っています(第15編)。信じることには偽りや嘘が多く、疑うことにこそ真理がある、という意味です。慶應義塾で学ぶということは、福澤諭吉について学ぶということでもあります。福澤という大きな存在に向き合い、時には疑い、自分自身の頭で考え、皆さんが福澤諭吉を超えるような大きな樹に成長してくれることを期待しています。
あらためて、ご入学おめでとうございます。