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2022年度卒業式が行われました(校長式辞)

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 2023年3月25日、2022年度卒業式が行われました。
 当日の校長式辞は以下のとおりです。

 卒業生の諸君、ご卒業おめでとうございます。高等学校の課程を修了し、今日の晴れの日を迎えることができました。ご家族の皆様、ご関係の皆様にも、心よりお喜びを申し上げます。
 諸君は、新型コロナウイルスの突然の流行拡大の中で高等学校に入学しました。世の中全体が目に見えないものに対する不安とともに、ひとつの色に染められました。入学式は行われず、オンライン授業と分散登校の時期を経て、高校生活が始まりました。「パンデミック」、「緊急事態宣言」、聞きなれない言葉が次々に現れ、私たちは右往左往するこの国のリーダーたちの姿を目にしました。
 昨年2月にはロシアがウクライナに侵攻し、今度は「戦争」という巨大な暴力を通して、リーダーのあるべき姿を考えることになりました。高等学校に入学してからの3年間は、「コロナ」という言葉だけでは収まりきらないほど錯綜した重い現実の中にあります。それらとどのように向き合っていくのか、それが問われています。

 君たちが塾高に残したものは何か。私はそれを「新しい風」という言葉で表現したいと思います。クラブ活動などでの輝かしい実績はもちろんですが、さまざまな制約の中で出来うる限りの工夫をして、学校行事に新鮮な風を吹き込んでくれました。
 たとえば陸上運動会、私はあれほど全校生徒がフィールドに目を向け、楽しそうに応援する姿を見たことがありませんでした。日吉祭はオンラインと対面を併用して、決して派手になりすぎず、手作り感のある企画が並びました。この学校にあった古い慣習を、さらりと軽やかに変えて、新しい文化を創り出してくれました。「新しい風」が吹き、それが向かってゆく先がとても楽しみです。

 さて、君たちが使った現代文の教科書の中に、鷲田清一さんの「社会の壊れる時」という文章があります。鷲田清一さんは現代日本を代表する哲学者です。タイトル「社会の壊れる時」には、「知性的であるとはどういうことか」という副題(サブタイトル)が付いています。
 「話せばわかる」という有名な言葉があります。1932年5月15日に、時の内閣総理大臣・犬養毅が海軍の青年将校によって銃撃されました。「五・一五事件」です。犬養がその時に口にした言葉です。それに対して青年将校は「問答無用」と返しました。
 鷲田さんは、この「話せばわかる」が、何のためらいもなく無視される時に社会は壊れると言います。「話せばわかる」は対話を求める態度、「問答無用」は対話の拒絶です。他国への突然の軍事侵攻もまた「問答無用」で起こりました。ひとたび戦争が起こり、それを対話によって終わらせることがいかに難しいか、私たちはこの一年でそれがよくわかりました。
 話し合うことで問題がより複雑になることもあります。しかし大事なことは、複雑な現実から目を背けないことだと鷲田さんは言います。むしろさまざまな意見の対立から生まれる「摩擦」の中でこそ、社会の生命が育まれる。「摩擦」を消去して一つの考え方にならしていこうとする社会は、その生命を失ってしまうのです。
 鷲田さんが説く「知性」とは、それを身につければ世界がきわめて鮮明に、クリスタルクリアに見えてくるというものではありません。「知性」とは世界を理解するための補助線であり、その線を引けば引くほど世界の複雑さが増していく。それを無理に解決しようとしたら、社会は壊れてしまいます。社会を壊さないためには、その複雑さに耐えなければなりません。世界を理解するために、その複雑さに耐える力を身につけることこそが「知性的である」ということになるのです。
 「知性」とは耐える力である。摩擦の中にあってもじっと耐える。自分の目の前の世界に補助線を引き、複雑さを増す現実をじっと見つめる。これはつまり「考える」ということです。諸君がこの学校で学び、経験したことは、つまるところ「考える」ということに帰着するのではないでしょうか。

 犬養毅は慶應義塾で学び、戦前日本の政党政治を支えました。五・一五事件によって大正デモクラシーは終わりを告げ、時代は自由主義から軍国主義へと大きく転換していきました。その日は日曜日でした。犬養は総理公邸で寛いでいました。夕方5時頃、複数の暴漢が突然公邸に侵入してきました。犬養は逃げるように促されましたが、「逃げない、会おう」と言いました。一発目は不発に終わりました。犬養は「撃つならいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い、タバコを勧めてから「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう」と言ったそうです。その時、「問答無用、撃て」の声とともに引き金が引かれました。走り去る暴漢たちに対し、犬養はなお「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と言ったといいます。
 自分の命を狙う青年将校を前に、「靴でも脱げや、話を聞こう」と言った犬養の胆力は、誰でも真似できるものではありません。切迫したギリギリの場面においてこそ、「知性」というものの真の形が立ち現れてくるように思います。「知性的である」ということは、摩擦や複雑さに耐えることであるとともに、どっしりと大きく構えた強さを持つということでもあります。

 福澤諭吉は『文明論之概略』において、「自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知るべし」と言っています。自由は「多事争論」の中にこそある。「多事争論」とは議論であり、対話です。議論することによって意見の対立、摩擦が生まれ、目の前の現実がより複雑になることがあります。しかしそれに耐えること、どっしり構えた芯の通った強さを持つこと、それが「知性的である」ということです。ではその強さとは何か。信念、信じるものをもつということです。犬養がそうであったように、慶應義塾で学ぶ私たちが大事に守るべきものとは、やはり「自由」を求める心、「自由主義」に対する揺るぎない信念だと思います。

「自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知るべし」

「話せばわかる」

 今日、この学校を卒業する諸君よ。知性的であれ。そして堂々たる大きなリーダーたれ。これが私からの贈る言葉です。

 あらためて、卒業おめでとう。

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