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2020年度卒業式 学校長式辞

2021年3月25日

 卒業生の皆さん、ご卒業、おめでとうございます。また、本日は会場にお越しいただくことができませんでしたが、卒業生のご家族・ご関係者の皆さまにも、心よりお喜び申し上げます。
 今年度は、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、通常とは大きく異なる1年間となりました。この卒業式も、無事に行うことができるのか、ずいぶんと心配をいたしました。結果として、卒業生の全員を一堂に集めてではなく9クラスずつ2回に分けての実施ということになりました。卒業生のご家族・ご関係者の方々につきましては、大変に申し訳ないですが、会場にお越しいただくことをご遠慮いただき、動画にて式の様子をご覧いただくことといたしました。そのような人数の制限に加え、さらに式の内容も、やや簡略化して時間を短縮しています。すべて、感染拡大防止のための措置ということで、ご理解いただきたく存じます。
 そのうえで、本日、ここに第72回の慶應義塾高等学校卒業式を執り行うことができますことを、改めて嬉しく思います。

 学事報告にありましたとおり、本日、高等学校を卒業する者は732名となります。それぞれが、今日から新たな道を歩み始めます。進む道は、一人ひとり異なります。ただし、ここにいる全員は、慶應義塾高等学校の卒業生である、という点で共通します。今後どのような道を進もうとも、そのことを忘れずに、そして、高等学校の卒業生であることに自信と誇りを持って、それぞれ歩んでいってほしい、と思います。
 最初にも触れましたが、今年度は新型コロナウイルスに振り回された1年でした。学校行事や特別教育活動、クラブ活動は、大幅に縮小となりました。授業においても、オンラインでの遠隔授業を採用した期間が多くあり、教室で友人と過ごす時間も大きく制約されました。高等学校での最終学年がこのような形になってしまったことに、皆さんは、それぞれ、残念な気持ち、あるいは悔しいという気持ちを多く持っているだろう、と思います。やむを得ない事態であったとはいえ、このような1年間を過ごさせることになってしまったこと、皆さんには大変に申し訳なかった、と思っています。
 ただし、新型コロナウイルスに対する不安を抱えながらの生活が、この3月をもって、今年度いっぱいで終わるわけではありません。4月以降においても、同様の生活がしばらくは続くことになります。今年度さまざまな場面で求められた自粛が、引き続き多く求められるだろう、と思います。これからの新しい生活の中でも、そのことは、ぜひ強く意識をしてください。
 ところで、自粛とは、自ら進んで行動などを慎むことです。自ら慎む、これは言い換えると、自らをコントロールする、自らを律する、そして、自らの判断のもと適切に行動する、ということです。このような、自らを律する、適切に行動する、ということは、実はコロナ禍のもとに限って求められる、というものではありません。社会の中で生きていくにあたり、必ず、そして常に、求められるものです。今年度はコロナに伴って強く求められたものでしたが、これから新たな道を歩んでいくにあたり、皆さんには、コロナ禍のもとにあるのか否かに関わりなく、自らを律する、適切に行動する、ということを、改めてしっかりと心に留めてほしい、と思います。

 さて、皆さんもよくご存じのとおり、福澤先生は、慶應義塾の目的について「全社会の先導者たらんことを欲する」と述べられました。改めていうまでもなく、義塾で学ぶ者には「全社会の先導者」つまり「リーダー」としての役割を担うことが求められます。高等学校も、もちろん同じです。高等学校で学び、そして卒業する皆さんには、「将来のリーダー」に相応しい人間であること、が求められます。
 高等学校が考える「将来のリーダー」、それは、「正統と異端を兼ね備えた人間」です。「正統」、つまり人間として当然に身に付けるべきもの、当たり前のこと、をしっかりと踏まえたうえで、さらに、「異端」、新たなものを創り出していく傑出した何か、飛び抜けた能力や技量、あるいは気概、を伸ばしていく。この「正統」と「異端」の両方を兼ね備えた人間こそが、高等学校の考える「リーダー」です。
 皆さんは、高等学校での生活を通じて、高校生としての「正統」を身に付け、またそれぞれに「異端」の芽を伸ばしたはずです。それを踏まえ、これから進んでいく新たな道においても、例えば大学生さらには社会人として求められる「正統」を改めてしっかり身に付けてほしい、同時に、よりいっそうの「異端」を積極的にめざしてほしい、と思っています。
 ところで、先日、私は、義塾の卒業生であり高等学校の卒業生でもある先輩が、義塾についてコメントしている一文に出会いました。簡単に紹介すると、「義塾の学問は、最先端を追究するのみでなく、その先にあるもの、最先端の次にくるもの、をめざす、あるいは創り出す、という気概を持つことが重要である」、「福澤先生がめざした人材とは、最先端の次にくるものを見据え、それを自ら実現できる人間である」、という内容です。
 これを読んで、私は、なるほど、と思いました。最先端で満足するのではなく、さらに最先端の次にくるもの、その先にあるもの、をめざす、それを見出す、あるいは創り出す。それこそがまさに、「異端」に通じます。
 皆さんは、『福翁自伝』に記されている次のようなエピソードを知っていると思います。福澤先生は、江戸で蘭学塾を開いた翌年、1859年に開港したばかりの横浜へ出かけます。そして、そこでオランダ語が通用しないことを知ります。通用しない、というよりも、使われていないことを知るわけです。横浜で実際に使われていた言葉が英語らしいと気が付いた先生は、改めて、ほぼ独学に近い形で英語を修得し、4年後の1863年には、それまで蘭学塾であったものを英学塾へと転向しています。蘭学つまりオランダ語による学問は、当時、西洋を知るための最先端にある、といってよいものです。しかし先生は、その最先端に固執することなく、その先に英語がある、これからは英語が必要だ、ということを見抜き、そして自ら学び取っていきます。このような福澤先生の姿、最先端の先にあるものをめざすという姿こそ、まさに「異端」を象徴する、といえるでしょう。
 皆さんには、そのような「異端」をめざしてほしい、と思います。最先端にとどまらず、さらにその先にあるもの、に目を向けて、さらなる「異端」を、ぜひ、めざしてください。

 これからの生活において、自らを律し自らの判断で適切に行動できる人間となること、そして「正統」と「異端」の両方を兼ね備えた人間としてリーダーの役割を担うこと、を皆さん一人ひとりが強く意識をして、新たな道を進んでいってほしい、と思います。
 今日が、その第一歩となります。
 皆さんが、今後、それぞれに、さらに成長していくことを、そして、大いに活躍してくれることを、心から期待し、また楽しみにしています。

 以上をもって、私の式辞といたします。
 最後に、改めて、もう一度。皆さん、卒業、おめでとう。


慶應義塾高等学校